お茶とまちづくりを考えるNPO法人です。


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静岡近代茶業の源流を辿る・Green Tea Tourism

理事 西野 真 報告

《志太お茶街道の再発見》

静岡近代茶業の源流を辿る・Green Tea Tourism

10月21日、秋晴れの日。お茶をテーマにまちづくり、お茶づくりを考える仲間、10人が集まり“静岡近代茶業の源流を巡る”ミニツァーに出かけました。
日本の近代茶業の歴史を堪能できるこのコースは藤枝市の観光案内にも紹介されず、ひっそりと今日に至っております。このツァー企画と案内は日本茶インストラクターの西野真が行います。
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スタートは「トンガリ屋根の貿易館」です。場所は藤枝市の中心市街地の山裾に建っています。今でも住みたくなるようなエレガントな姿は築後、104年を経ているとは思えません。この建物は静岡県茶業組合聯合会議所の強力なリーダーシップの元に静岡県茶業が官民一体となり、清水港からアメリカ向けの静岡茶を満載して出航した時の記念碑的な建物です。

この日本郵船航路の成功は清水港を国際港として横浜港に変わるお茶の積出港になっていきます。
この建物は志太地域(大井川左岸の島田、川根、藤枝、岡部、焼津)のお茶を輸出するための貿易会社の建物として明治34(1901)年建てられ、後に住宅として利用されましたが明治期の木造三階建て、お茶の商館として残っている全国で唯一のものです。

ここに集められたお茶は東海道線に積み替えられ、清水港に運ばれました。
この頃、すでに藤枝茶商は東海道沿いの上伝馬、下伝馬を中心として60店ほどが営業していました。
東海道線開通、明治22(1889)年以前は瀬戸川沿いの道または田中城からの水路より焼津湊の城之腰に運ばれ、江戸(東京)に運ばれました。船で運ばれる茶俵、茶瓶には海上安全の厄よけ札が貼られました。

私たちは旧東海道を横切る瀬戸川を上流域に向かいます。山裾の流れは川遊びを誘うようなのどかな川辺です。この川沿いには10軒ほどの荒茶工場があります。ここから生産される荒茶はレベルも高く隣接する川根、本山にも販売されています。
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車で市ノ瀬からテンノウ坂を越えて30分ほどで蔵田にでます。まもなく大久保キャンプ場、グラススキー場を過ぎると目の前に大茶樹が目の前に広がります。
静岡県内でもっとも大きくて古い現役の茶の木です。樹勢は旺盛で毎年、生葉で20キロほど摘み取られ、長寿の茶として好評です。この平口家の大茶樹は230年前に植えられ、農水省の調査でも優良品種の評価を受けた中国種(DNA鑑定)の茶の木です。

川根、伊久美地方では古くより茶を栽培し、茶銭を賦課されていました。
江戸時代中期以降、庶民のお茶需要が高まる中で茶畑も拡大していきます。当然、茶産地ではより優秀な茶の木を求めていきます。この大茶樹もそのような期待を込めて大久保に植えられたのでしょう。
過去にも江戸初期、元和一年(1615)に伊久美村小川の坂本籐右衛門は唐崎のお茶が優れていることを聞き、近江の国(滋賀県)にあるその茶の木を求め、栽培して広めたといいます。この地域(大久保・伊久美村)には茶の三偉人がいます。一人目は先に紹介した坂本籐右衛門、二人目は坂本籐吉(籐四郎)、三人目が西野平四郎です。

坂本籐吉、西野平四郎のお茶にかける情熱は静岡県の近代茶業のさきがけとなります。
文化十年(1813)江戸開府より150年余、老中田沼意次は財政改革に営業税を取り入れます。菱垣廻船の輸送力を擁した江戸十組問屋が生まれ、さらに商品ごとの公認の寡占株仲間が生まれ、冥加金(税金)上納の見返りにさまざまな特権を得て物資の取引流通を独占します。
そのひとつに二十株で構成する江戸茶問屋があります。茶納入指定業者と指定輸送ルートを取り決め、お茶を独占していたことにより茶の価格は下落し茶農家はその窮状を幕府勘定奉行に訴えます。

この解決を図ったのが『文政の茶一件』(1827)ですがこの被告に坂本籐吉(当時24才)、西野平四郎がなります。お茶農家であり地域のとりまとめ役であった彼らは事件の被告として渦中に巻き込まれます。
彼らはこの名誉回復のため、新たなお茶作り、販売の研究に取り組みます。彼らは当時つくられていた安価で粗製乱造気味のお茶、煎じ茶から煎茶への転換を図ります。

天保8年(1837)坂本籐吉は自費で宇治製法の習得と近隣有志に伝習を行います。この伝習を受けた若者たちは各地に伝習者として広がり、手もみ各流派を生みます。
西野平四郎は製造と併せて運搬ルートの確保と販売に力を注ぎます。この製法のお茶は江戸で評判を呼び、高価格で取引されます。
この製造方法は志太地域、大井川流域に拡大し、手もみ茶の一大産地が形成されていきます。
安政6年(1859)長崎、函館、横浜が国際貿易港として開港します。この開港と同時に茶の輸出は飛躍的に伸びていきます。その中でも手もみ茶は高級茶として取引され、志太北部は高級茶の産地として知られます。
西野平四郎はアメリカへの販路を開拓し、紀州の彦五郎という通訳を雇い横浜港より出荷します。

明治13年(1880)平四郎は三井物産会社と共同で茶のアメリカ向け直輸出を手掛け、翌年貿易に必要な為替決済の出来る金融機関、伊久美物産会社(認可14年・開業16年)をつくります。志太郡下で三番目つくられた金融機関です。
その建物は現存し、二俣の公会堂として地域住民に利用されています。手もみ茶をつくった平四郎の茶部屋も当時のまま残されています。

これから残された建物を見に行きます。大茶樹から車で5分ほど走ると西野平四郎の屋敷と茶部屋が見えてきます。横を流れる小川は伊久美川になっています。
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残された茶部屋は当時のままで地元の人の話では田中城の馬小屋の一部を移築した話も残っております。
内部の土間はタタキで壁は土壁、窓は連子窓で換気のための天窓がついています。二階の蚕室は無く専用の茶部屋で大きさはおよそ2間半の5~6間、12~15坪の茶部屋です。今でも焙炉をおいてお茶作りが出来ます。
ここから歩いて2、3分のところに元伊久美物産会社の建物があります。今は伊久美地区の公民館となっています。
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ここでアメリカ向け直輸出業務に欠かせない為替の決済を行っていたのです。この当時、茶の輸出は横浜の外国商館が扱い、中国人茶師の元で再生されてから輸出されていました。
日本の茶業者がアメリカへお茶の直輸出をすることは大変困難なことでした。

開港というグローバーリーゼイションに最も早く対応した志太地域の人々の挑戦的で広い視野は今の我々にこそ必要な精神ではないのでしょうか。
幕末から明治にかけて活況を呈した茶製造は英語、英会話にまで広がり当時の中浜万次郎の英会話のテキストが残されています。
残された建物をみながら当時の勢いに圧倒されます。

残されたこれらの建物を活用保全するためのお茶づくりの講習会、お茶の歴史勉強会、グローバリーゼイションが当時以上に進んだ今日の体験的歴史教材として知識だけでない時代を肌で感じる場所として活用が考えられます。
地域の皆さんに協力して頂ければ農業(お茶作り体験)と観光を組み合わせた1.5次産業の商品づくりが可能な場所です。

幕末、明治期、お茶はこの伊久美川から大井川を下るコースと伊久美から桧峠を越えて最短距離で藤枝、焼津に向かうコースがありました。
伊久美に集まるお茶の大きな流れは伊久美川から桧峠を越え、瀬戸川沿いに藤枝に向かいます。この大きな流れが近代化を急ぐ日本の外貨獲得に大きく貢献し、静岡県の近代茶業と、清水港の国際港化につながります。

d0022550_858308.gifこんな話をしながら私たちは坂本籐吉の屋敷跡とお墓に挨拶をして伊久美川を下ります。
20分ほどで大井川に出ます。少し暗くなる大井川左岸の道を上流部に向かい笹間渡を目指します。途中川根温泉を過ぎ、笹間ダム湖を望む知人宅でこのツァーの反省会です。

参加した人たちは金谷、島田、藤枝の40代から70代のおじさんたちで、リタイヤ組から現役農業従事者、リハビリ中の人、会社役員と様々でした。
皆さんが共通していることはこんな歴史コースが身近にあることをほとんど知らないことでした。
戦後の混乱期を過ぎ、茶況、生産団体、茶商、行政などの団体が大きく様変わりをしていく中、また新たな静岡空港の開港を迎える今、地域に残された歴史財を掘り起こし、志太地域茶業がグローバーリーゼイションに最初の反応したことをもう一度再確認することが必要です。

次回の Green Tea Tourism 待ちください。
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by ochaji | 2005-11-09 17:29 | ■ 理事・会員の日記