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お茶とまちづくりを考えるNPO法人です。


by ochaji
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定年後はお茶農家に

みなさん こんにちは 渡邊正治です。
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 お茶業界でベテッランの方々ばかりの中で、ささやかながら日本茶に関わりを持つようになって4年目です。半年前、36年間の会社人生を終えて、藤枝市で第二の人生をスタートしました。
 毎日新聞社が2005年度毎日農業記録賞の懸賞論文の募集をしていたので、表記の題にてささやかな文を投稿したところ、思いもよらず静岡地区にて入賞しました。
 沼津の小野さんというご婦人はお茶農家に嫁いでご主人と二人三脚で遂に自前の製茶工場を持つまでの体験を綴った素晴らしい論文が、全国中央において優秀賞に輝きました。
 全国区での最優秀賞は、地震の被害を受けた山古志村の24歳の若き酪農家の関 さん、
全壊した自宅と畜舎、牛の半数が梁の下敷きで死に、残った牛を山に放ちて避難、よく月戻ってガリガリに痩せて生き延びた43頭の牛をヘリコプターで麓に運んだ。
、、、、、、、 ものすごい体験記録です。
 それに比べて、私のは恥ずかしいようなささやかな体験記録ですが、自己紹介を兼ねて拙文ですが、ご紹介いたします。

「定年後はお茶農家に」
1 はじめに
 友人達は私が定年退職後にお茶を始めたと聞くと、手首を動かす仕草をして「茶道?」と意外そうな顔をする。そうではないと知ると「趣味も実益も兼ねて、健康にも良いですねえ」と羨ましがる。テレビで紹介される美しく手入れされた緑の茶園とのどかな茶摘風景を単純に想い浮かべているのである。
 親しい製茶問屋の社長さんが「渡邊さん、ほんとに今年6月末で会社辞めて藤枝に帰ってくるんでしょうね」と念を押した。前々から「定年退職したら小さな茶園と小さな製茶機械でいろんな美味しいお茶を作れたら楽しいですねえ」と社長さんに本気で話していたからだ。
 社長さんは、退職後の私が好きなようにお茶つくりが出来るようにと廃業した玉露生産者から中古の小型製茶機一式を購入し、茶工場建屋の新築も始められた。
 PETボトル茶に押されてジリ貧になる茶業界を生き残るための何か新しい試みを為すために、この小型設備で様々なコンセプトのお茶の試作やマーケッテイングなど、いろんな企画の夢や構想を二人で膨らませていたからである。
 実際に茶園の世話から茶葉を育てて摘採し、製茶にいたる一貫したお茶つくりのプロセスに実際に手を染めることは重要であろう。社長さんは知り合いの農家を通じて茶園も借りてくれた。
 実際には自作の茶園からの生葉だけでなく、いろんな品種や在来種の生葉も購入して製茶する予定である。
 平成17年6月、36年間勤務した化学会社を遂に定年退職し、静岡県藤枝市で2反3畝の山の茶園を借りてのささやかなる茶農家がスタートした。
 先行投資として中古の4駆軽トラ、ポリタンク、ポンプ、ホース、整枝機、茶刈機なども約80万円で揃えた。定年後はお茶農家に_d0022550_1418135.jpg
 整枝、消毒、施肥など一通りの作業と専門知識を専業農家やJAの方から実地で教わりながらの茶園通勤である。しかし、実際には10坪や20坪の家庭菜園とは異なり、暑さの中での作業は予想以上にハードであった。
2 美味しいお茶との出会い 私の出身地である京都丹波では、母が山の自生のお茶を摘み、蒸して筵の上で揉んで天日で数日乾かし、毎朝ヤカンの熱湯に茶葉を入れて飲んでいた。
 昭和44年、就職で埼玉県入間に来た時、友人が狭山の新茶を飲ませてくれた。ほのかな渋みと甘さがいつまでも口に残るさわやかな香りのお茶であった。これが芸術品とも言われる狭山火入れ茶だったのであろうか。その時以来、近くの茶店で当時100グラム400円の高級煎茶を毎週買って飲むようになった。3万7千円の給料では最高の贅沢であった。
 しかし、結婚してからは仕事の忙しさと、美味しいお茶を楽しむ生活の余裕も無く、お茶への思い入れも薄れてしまった。平成2年にこの藤枝市に自宅を建てたが、広島、東京、大阪、千葉、姫路など16年間の単身赴任生活を送った。3年前、大阪の書店で見つけた一冊の本を読んだ時、「茶の経済性や製茶方法のゆえに最近のお茶は昔と比べて美味しくなくなった」と述べられていた。
 今なお昔ながらの美味しいお茶に拘っている生産者や製茶問屋が紹介されていたが、まさしく自宅藤枝の市内であった。
 早速、その製茶問屋を訪ね、社長さんからお話を聞いた。彼はある老茶師の作るこだわりのお茶を勧めてくれた。家に帰ってこのお茶を一口飲んだ時、ユリの花のような上品な花の香り、さわやかな緑のほのかな甘さと渋み、その強烈な個性は次第に衝撃波のように私を打ちのめした。かすかに覚えていた昔の美味しいお茶の原体験が一瞬のうちに蘇ったのである。
 それからは、様々な美味しそうなお茶を探してこれでもか、これでもかと購入して味わい、友人達にも美味しいお茶を紹介した。
 しかし、アミノ酸の旨さを強調した典型的高級煎茶や玉露はクロレラのような海苔臭故に好きになれず、やはりさわやかな香味のある山間地茶が好きであった。
 そのうち当然の成り行きとして自分でお茶を作ってみたくなった。幸か不幸か、自宅近くには放置されて荒れ果てた茶園がたくさんある。茶葉を無断で摘ませてもらい、日に干し、部屋で干し、蒸したり、釜で炒ってお茶を作った。ちゅるちゅると可愛い形のお茶である。茶に関する多くの本や中国茶の製法に関する文献も繰り返し参考にした。
 化学会社で新製品開発や製造、品質管理、市場開拓など36年間もかかわってきた者にとって、化学の切り口からお茶の香り、発酵、製茶、品質などを眺めることは、真に興味深いものであった。
 しかし、お茶の世界は化学よりももっと複雑であった。茶葉の状態、季節、天候、発酵状態、
製茶条件などにより同じ品種薮北でも様々なお茶が出来る。
 しかし、私が好ましいと感じる個性あるお茶は専門家の判定ではしばしば不合格であった。個性や特徴はすべて減点対象であるという茶品質審査基準はなんとなく消費者不在ではないかと素朴に思うのである。
 鯛やひらめの上品な白身魚の刺身は美味しいが、脂ののったマグロのトロやハマチ、鰹や鰯のタタキはもっと大好きである。何も足さない、何も引かないという洋酒のコマーシャルがあったけど、そんな優等生のお茶ばかりを目標にしているのでしょうか。
 この5月の連休には藤枝市から「藤かおり」という新品種のお茶の製造での萎凋(生葉を干して萎れさせ、香りをつける)を製茶組合の工場で指導して欲しいと頼まれた。
 今まで趣味でやっていた数百グラムの生葉の萎凋しか経験無かったので、数百キロ単位で運び込まれる生葉の萎凋を実製造現場で初めて実施することは困難を極めた。しかも、蒸れによる葉腐されなどの失敗は許されない。
 幸いにも美味しい香りのお茶が出来て、生産者や市、JA等関係者の方々から喜んでいただいたのである。
 3 定年退職 にわかお茶生産農家に 
 茶園のうち一反は公務員を最近退職した人から借りた。息子は後をやらないし、体力的にしんどいし気力も無くなったという。定年後はお茶農家に_d0022550_15121886.jpg
 山の急斜面の茶園は2年前から放置され、シダが完全に覆って茶の木の姿も見えない。夏の炎天下、斜面の畝を腹ばいになって潜り込み、地表面を縦横に這うシダの根ごと手で取り除く泥んこの難作業である。
 綺麗になったら、来春には伸び放題の茶樹を低く切り下げて、肥料を入れて耕して大切に育てる。生葉の収穫は再来年の春になるだろう。
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 山間地では十分世話が出来ないため無残にも病気にやられた茶園や、遂に放置されて草に覆われかけている茶園がどんどん増えている。その有様は目を覆いたくなるほど悲しくて残念なことである。私の荒れた茶園の再生作業は焼け石に水の感もする。こんなたいへんな茶園は返却して、もっと楽な畑を借りたらと皆は言う。しかし、そう言われると意地でも再生したくなる。
 もう一つの一反3畝の茶園は八十歳を越えたお母さんと勤め人の息子でやっていたのだが、お母さんの手ではしんどくなって世話できなくなったという。一番茶を刈った後に二番茶の新芽が病気にやられて黒く枯れた状態であった。まずは草取り、そして整枝、施肥、中耕、そして消毒、夏の暑い日の作業は昼までが限界である。10時になると地面から熱風が昇ってくる。早起きは三文の得とはよくぞ言ったものだ。
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 夏台風の過ぎた翌朝の強い日差しにより、新芽の先端が日焼けで黒く枯れてしまった。「自然相手なので何も無いことのほうが少ないよ。一年間世話して八十八夜の直前に霜にやられることもある。落ち込んで出るのはため息、経費は出ない」と老生産者は言う。
 しかし、一日の作業が終わり、泥んこの作業着を脱いで風呂に入り、さわやかな疲れと空腹の中での夕食、冷えたビールの美味しさ、この快感は会社時代には無かった。すくすくと育ち美しい鮮やかな緑の茶葉で覆われた自分の茶園を眺めるのは至福の喜びである。定年後はお茶農家に_d0022550_15372425.jpg
4 これから
 天気良ければ作業をし、雨が降れば休養日、身体を動かし汗流す。道楽でやっている茶業だから無理して儲ける必要も無い。肥料と消毒、ガソリン代などの経費プラス少々が回収できれば良しとしよう。会社は定年退職したが、この藤枝では茶業関係の方たちと多くの新たなお知り合いが出来た。
 茶園を世話し、茶工場を動かし、いろんなお茶を作り、マーケッテイングもしょう。さあ、どんな展開になるだろうか。
 もう直ぐ61歳になるが、病気にならず健康が維持できれば10年、20年は茶業をやれるであろう。機械化が困難な山間部の茶園は生産者の老齢化と後継者不在のため、ますます衰退し、茶園は大昔と同じ自然に帰っていく。牧の原台地の大規模茶園の徹底した自動化による生産性向上は不可能である。
 しかし、手間暇かかっても山間地の茶園でしか出来ないお茶、真に消費者の多様な嗜好変化に対応した少量多品種の特徴あるお茶に方向転換できないだろうか。そんなお茶のファンは必ずいるはずである。
 私の友人達に私が好むお茶を紹介した時、10人に数人はその美味しさに驚嘆した。彼らは昔飲んで感激したお茶を潜在意識の記憶の中になおも覚えていたのである。
 最後に、2007年問題と言われているが、大量の団塊の世代にとって定年退職後の第二の人生として私の生き方がささやかな参考になればとも思うのである。
                                                       おわり
by ochaji | 2005-12-13 16:14 | ■ 理事・会員の日記